バブルの経済理論
無形資産が金融機関に担保評価されない/金融機関に評価能力がない
ドル一強の弊害 米国債の付則 安全資産の利回り低下
現代経済学の直観的方法
179,202 211 213218 233 244 249 259 260 272 278 279 283 291 295 303 311 314 321 356 375 379 382 392 397 400 401 404 407 408 421 424 426 433 434 439 443 446
老化のフリーラジカル説
幹細胞が使い尽くされる
細胞間情報伝達が異常をきたして炎症性分子が作られる
75 適度なストレスが長寿遺伝子を働かせる
ノンレム睡眠で情報を整理し、レム睡眠で情報を統合する。
・睡眠紡錘波が多いほど、
・スキルの練習をやめてからも、
・夜の睡眠が8時間以下とくに6時間を切ると、
・6時間睡眠を10日間続けると、
・睡眠不足の後で好きなだけ寝る生活を3日も続けても、
・認知力を維持するには1日に7時間より長い睡眠が必要だ。
・たいていの人は、
・レム睡眠は、個々の情報から「抽象的な」
・先進国の人間も、狩猟採集民も、
・就寝前にiPad(青色LED)を2時間使うと、
・毎日同じ時間に寝て、同じ時間に起きる(平日も休日も)
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私は16歳のとき、ちょっとした天啓を経験した。学友の数人に、ロンドンのウェスト・エンドにあるアート・シアターに行って、当時インテリが褒めちぎっていた映画を観ようと誘われたのだ。それはイングマール・ベルイマンの驚異的な映画「第七の封印」だった。シェークスピア的壮大さと深淵さを持つ映画だ。中世の騎士アントニウス・ブロックの物語で、彼は十字軍の遠征からスウェーデンの故郷に帰る途中で、命を奪いにやってきた死神に遭遇する。不可避の運命から逃げるか、少なくともそれを遅らせるために、ブロックはチェスの対戦を持ちかける。彼が勝てば命は救われる。当然、彼は最終的に負けてしまうが、それはうかつにも告解司祭になりすました死神に騙されて、自身の魂を晒してしまったせいだった。この寓話的設定が、生きることの意味、あるいは無意味さと、その死との関係に関する不変の問題を、深く掘り下げる場となっている。何世紀にもわたって人々が取り組んできた、哲学、宗教的な話の核となる問題が、ベルイマンの才覚によって鮮やかに描かれていた。黒衣をまとった死が、シルエットだけのアントニウスとその取り巻きたちを引き連れて、遠い丘の上を死の舞踏により避けられぬ運命へと導く印象的な最終シーンを、誰が忘れられようか。
純真で自覚のない思春期の16歳に、この映画はどれほど影響を与えたことか。人生にはお金、セックス、サッカーよりも大事なことがあると本当に心から感じたのは、このときが初めてだったと思う。そして、形而上学や哲学思想の問題についての長きにわたる関心が始まった。私はソクラテスやアリストテレス、ヨブ記からスピノザ、カフカ、サルトルまで、そしてラッセル、ホワイトヘッドからヴィトゲンシュタ、アフルレッド、エイヤーさらに、コリン・ウィルソンまで、お決まりの面々が書いた本をすべて食欲に読み始めた。ただし、彼ら(なかでもヴィトゲンシュタイン)が言っていることは、どれもほとんと理解できなかったが。だが私が学んだことは非凡な男たちが本当に大きな問題に長いあいだ取り組んできたのに、実は答えはないということだった。単に問題が増えただけだった。
ほぼ60年後の今もこの映画が、晩年を迎えつつある少し疲れたせ75歳の老人に、今やもっと繊細かつ痛烈かもしれないとはいえ、同じ強力な印象を与えるということが、ベルイマンの傑作の奥深さ物語っている。映画の決定的場面で、死神がきわめてまっとうにもアントニウスに尋ねる。「おまえは問いかけることを決してやめないのか?」。これに彼は断固としてこう答える。「そう、決してやめない」。私たちもやめるめるべきではない。死へのこだわりは、果てしない問いかけと、生の味の探求と相まって人間の文化に浸透したが、そのほとんどは人間が作り出した多数の宗教制度と体験のなかで問われ、定式化されてきた。一般的に科学はそのような哲学的迷宮にには足を踏み人れなかった。だが多くの科学者は、たとえ自分では「宗教的」でも、まして「哲学的」でもないとしても、「自然の法則」の理解と解明の探求、すなわち物事がどのように機能し、それらが何からできているかを知りたいという情熱について、これら大きな問題と折り合いをつけるための別の道だと考えていた。私はどこかの時点で、自分もそうした一人だと認職し、科学、あるいは少なくとも物理学と数学のなかに、普遍的なニーズらしきある種の霊的滋養を見いだした。やがて私は、科学は大きな問いの一部に信用に足る答えを与えてくれそうな、唯一ととは言わないが数少ない枠組みの一つだと認識するに至った。
むかしむかし、科学は「自然哲哲学」と呼ばれ、今の私たちが考えるよりも、いくらか広い意味合いを持ち、哲学的、宗教的思考ともっと大きなつながりを持っていた。科学に革命をもたらした、普遍的な自然法則を紹介したニュートンの名著『プリンピキア』の完全な書名が「自然哲学の数学的諸原理」なのは偶然ではない。ニュートンは不滅の魂、悪魔と悪霊の存在、偶像崇拝とみなしていた神としてのキリスト崇拝といった古典的教義を否定する、異端的な考えを持っていたが、自分の研究の原動力は神の啓示だと考えていた。 『ブリンキビア』について彼は次のように述べている。「私たちの秩序についての論文を書いたとき、私はそのような原理で神への信仰について人々に考えさせようと思っており、それがその目的のために役立つとわかれば、それに勝る喜びはない」。
自然哲学の派生物としての近代の科学的手法が、そのような考察を引き起こすことはまずないがそれでも遠い昔から人間を当惑させてきた、「宇宙」に関する最も厄介で根本的な問いの多くに、核心をつく一貫した答えを出す点できわめて強力だった。宇宙はどのように進化し、星は何でできていて、様々な動物や植物はどこから来たのか、なぜ空は青いのか、次の日食や月食はいつ起きるのかなどなど。私たちは、自分を取り巻く物理宇宙について膨大な理解を獲得し、それは多くの場合この上なく詳細だし、宗教的な説明にしばしば顕著な場当たり的で恋意的な議論を持ち出すこともない。しかし答えられないまま残されているのは、音識、内省し論理的に考える能力を授かった人間としての私たちは一体何者なのかという、まさしく本質に関わる深遠な問いの多くだ。私たちは、心と意識、精神と自己、愛と憎しみ、意味と目的といつた本質に取り組み続けている。最終的にすべては、ニューロン発火と脳の複雑なネットワーク力学で理解されることになるのかもしれないが、ダーシー・トムソンが100年前に言っているように、そうならないのではないかと私はにらんでいる。問いは常に存在し続け――それが人間の条件の本質だ――アントニウス・ブロック同様に、たとえそれが死神を大きく失望で苛立たせることになっても、私たちは決して問うことをやめない。そしてこのすべての形で結びついているのが、老化と死の理解という課題と逆説、さらに自分自身の存在の有限性に対する人間の集団的、個人的な不安とどう折り合いをつけるかという問題なのだ。
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マルサスはそのような破滅を回避して維持可能な人口を確保するには、何らかの形で人口抑制が必要だと結論づけている。これは疾病、飢餓、戦争の増加といった「自然」原因で生じるか、もっと好ましい社会的行動の変化、とりわけ彼がその再生産率が明らかに人口問題の原因になっていると考えた、低収入労働者の行動変化のいずれかだ。敬虔なキリスト教信者として、彼は避妊という考えを好まず、禁欲、晩婚化、さらに極貧者や健康、精神に欠陥を抱えた者の結婚制限といった、道徳的抑制という考えを好んだ。どこかで聞き覚えがないだろうか?。彼の抱いていた深い宗教、道徳的信条を考えると、マルサスが大規模不妊手術、あるいは当時可能になっていた中絶の自由化の熱狂的支持者になるとはとても考えにくい。しかし、中国が採択した一人っ子政策なら大いに支持したはずだ。言うまでもなく、現代の新マルサス主義者たちは、人為的産児制限、中絶、あるいは場合によっては、自発的なら不妊化計画に関しても、宗教的信条のせいでためらったりはしない。
マルサスの分析の不幸な結果の一つは、貧困者は繁殖があまりに速すぎるから困窮してしまうのだと強調することで、実質的に貧困者を非離していると解釈されたことだ。これを認めれば、彼らの貧困と全般的な酷い状況の原因が、資本家による搾取ではなく子だくさんにあると、つい断定したくなる。このような考えによる結論をさらに進めて、従来のマルサス主義者は、政府にによるものでも落善事業によるものであろうと、貧困者に対する家父長的な施しをしても、彼らの数を増やし、経済的に依存する貧困者数をさらに指数関数的に増やす原因になるだけで、最終的にこれは国を破産させることになって逆効果だと信じ込んでいた。この考えの各種現代版の変種も、かなりお馴染みだろう。この考えは必然的に大きな議論を引き起こし、その後2世紀のあいだに何度も繰り返され、もっと広い文脈で見ると現在まで衰えることなく続いてきた。
ある意味、議論が途絶えなかったことはかなり驚きだ。なぜなら、マルサスの考えは大きな批判を受け、彼がそれを提案するやいなや、あらゆる政治的立場の、社会的、経済的に最も影響力を持った型家たちから即座に却下されたからだ・・・。そして、これから見るようにそれには正当な理由があった。ここ200年のあいだ、マルクス主義者や社会主義者から自由主義的な自由市場の信奉者までそして社会保守主義者やフェミニストから人権擁護者まで、マルサスの議論は様々な方面から幅広く批判されてきたし、それは今なお続いている。個人的に特に面白かった古典的批判は、マルクスとエンゲルスによるもので、彼らはマルサスを「ブルジョアの走狗」とけなしたが、それはまるでモンティ・パイソン登場する彼ら自身のパロディのように聞こえる。
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地球の歴史、とりわけ近代人間社会の社会経済的発展において、人類をここまで連れてくるのにエネルギーが果たした明らかな中心的役割にもかかわらず、経済学の古典的教科書で、それについて触れた文はほとんど見つからない。意外なことに、エネルギーやエントロピー、代謝、環境収容力といった概念も主流経済学に入り込んでいない。経済、市場、人口のここ200年間の持続成長と、それに伴う生活水準向上は、当然かもしれないが、古典的な経済学的思考が成功した証拠であり、新マルサス派の思想の否定とみなされてきた。エントロピーを不可避の結果と考えることはもちろん、経済的成功、あるいは人口成長を下から支える原動力として、エネルギーについて深刻に考える必要はなかった。実は資源は有限かもしれない、あるいは無限成長を疑問視させる根本的な物理的制限があるかもしれない、などと考える必要はなかった。これまでのところは。
これらの問題はイノベーションと人間の創意が、とりわけ比較的自由な市場経済に刺激を受けることで、過去も未来もすべての活動で果たしてきた魔術的とすら言える役割を持ち出すことで、既念上は回避されてきた。物理的宇宙がなぜ指数関数的に拡大し続けるのかを「説明」するために、謎めいたほは無限の暗黒エネルギーが持ち出されたように、革新的アイデアの無限に近い供給が、社会経済的宇宙が行く手の障害を克服しながら拡大し続けるのかを説明するために利用される。
加えて、イノベーションの種子であるアイデアはタダだという、言外の仮定も存在するようだなんといってもアイアアは、人間の脳内の「単なる」神経上のプロセスで、人類は集団として頭のなかでそれをほば無限に生み出せる。だが他のすべてと同様に、頭がアイデアとイノベーションを思いつくにはエネルギーが必要だ。そしてそのエネルギーの大半は、頭のきれる個人を支援し、適度に刺一激的な環境と、大学、研究所、議会、カフェ、コンサートホール、会議場といった場所で制度化した集団経験を提供するためのものだまさにこの特質が、都市と都市生活という概念に具現化されている。